森友問題と羅生門

森友問題と羅生門

3月2日は満月。和暦手帳に寄せた月暦のメッセージは「気になることを明らかにして、探究の問をもつ」。誰が書いた?ってくらいドンピシャのことが個人的にあったけど、もう一つ大きな出来事が日本に起きた。朝日新聞による「森友文書の財務省による書き換え疑惑」の報道。誰もが「終わっていない」と思いつつも進展がない状況に、朝日新聞が風穴を空けたのが3月の満月。まさに「気になっていたことが満ちた日」だった。

その日から政治、行政と司法、すべてが「国のシステム、このままでよいのか?」という探求をはじめた。私自身も(個人的な探究は数日前に終わったので)、昨日は森友問題の経緯を探究してみた。今まで知らなかったので、一気に膨大な資料を読んでみた。そして多様な視点の報道を読んでいくうちに、左右が対立分離して、お互いを攻撃しあっているのだなぁーと感じた。「独裁」という批判があり、「安倍さんしかいない」という好意的な主張があり…。どちらが正しいのか?は判断せずに、二つの声を総合すると、いずれにしてもいまの政治体制は「力が一つに集中している状況」なんだとわかった。

ふつうに考えても、力が一つに集中すると分散しないから、ゆらぎが生れないよね。ゆらぎがないというのは、もろさもあるってことだ。

そして安倍総理夫妻、籠池夫妻、省庁…それぞれに主張があって、何が真実だか?わからなくなっているのだね。それで思い出したのが、黒澤明監督の羅生門。(知らない方はこちらをどうぞ)羅生門Wikipedia

30年前に、この映画から学んだ人間の変わらない本質。
「人間の認知や記憶は、みたいものをみる。自己正当化によってもたらされる」
森友問題のそれぞれの主張は、羅生門のようであり、かかわっている人みんなが「みたいようにみて、聞きたいように聞いていた」としたら、真実は人の数だけあるのかもしれない。どの人の主張を信じるか?の背景には、それぞれの正義のストーリーがあるのだろう。つまり真実がやぶの中なら、はっきり言えるのは、「私はその場にいた当事者ではない」から、真実が全部そろうまで、何が真実か?は、私は判断できない。わからない。印象操作に惑わされたくもない。「森友問題」だけを切り取るならば、私はそれが精いっぱいの答えだ。
当事者の数ほどに真実と正義があるなら、こんなときこそ全員そろっての「対話」が有効だと思うけど、政治の場で「対話」は選択されない。

じゃあ、判断する材料がないから、「なるようになって」…と他人事のように中立の立場でいるのか?…はちがう。ちゃんと自分で考えていきたいし、私には願いがある。この問題が「力の一極集中」で起きたことであれば、速やかに三権分立が正常に機能するように純粋に願いたい。(今回のことでいえば、情けなかったのは会計検査院。財務省と国土交通省二つの決裁書がちがうものであると気づいていたのに‥‥)そこをちゃんと意識して行動できる政治家は誰なのか?を自分でも見極めて考えていこう。誰も完璧な人はいないし、完璧な組織もない。そうあろうと努力するために、三権分立があるのだと思う。そして同時に、北朝鮮を中心にした国際情勢が変化している中、第3次世界大戦を回避するためにも国会を空転しないでほしい。森友はそれとして調査する体制を早急に整えて、与野党でちゃんと対応してほしい。

政治って大切だと信じてるからこそ、私にある強い声だ。とてもシンプルだけど、自分のために書き残しておこう。あの時「何も考えなかった。行動しなかった」…と後悔しないためにも。

追記:じゃあ自分はどうなのさ?…だね。私がいま自分にできることは、①カリスマにならないように注意。一つの強いイデオロギーはゆらぎがないから弱い…ことを知っておく。②私個人は「秘教学/神智学」という一つの信念を生きているけれど、それも多様な一つであり、「これだけが正しい」と仲間で結託していくより、「違い」を尊重して認め合いながら、共に生きることができることを願って、対話を大切にしていこう。
…この二つが、私にできる小さなこと。全体性のための小さな一歩。

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