2016年の山伏修行を終えて

2016年の山伏修行をおえて。

三年目になる山伏修行。
一年目二年目の修行は「体験」だったと痛感した。
修行を「体験」ではなく「道」にするには
一年一年を丁寧に重ねていくことなんだな。
それを今年、三年目で気がついた。

一年目と二年目は、自然のなかで感じることだけが
とても、とても嬉しかった。
でも修行が三年目となると、

自然に生かされた命を実感して日々生きているので、
その先の「研ぎ澄まされた祈り」へ向かいたくなる。

修行は、祈れば祈るほどに
自分に謙虚になっていくこと。
祈る役割を自覚すること。

それが大切だと思うから…。

でも確かにそうなのだけど、
「祈りとは~あるべき」と強く信じて
日々生きている三年目の私は
逆にちっとも謙虚になれなかったのだ。

私は、修行の場こそ苦しい…のだ。
人生を魂のままに生きて、
普段から自然のなかに身を置いていると、
実は集団行動の修行の場こそ苦しい。

上下関係や厳しい作法も、実は修行の一面で、
私にはとても不自由で、
自分の祈りに集中できないのだ。

修行の場では、本当にいろんな人がいる。
スラスラと祝詞を唱える人。
何も唱えず聞いているだけの人。
装束に敬意をはらう人。ぞんざいに扱う人。
私語が多い人。沈黙に身を置く人。
えばってばかりの偉そうな人。小言をいう人。
祈りたい…という私の気持が膨らむほど、
「祈る私」の心がジャッジをはじめる。
「私はちゃんと祈っているのに、
 あの人のせいで集中できない!」
「遊びで山にきているなんて信じられない!」
「もっと祈っていたいのに、もう終わり?」
「あの人真面目にやっていない!」

一年目二年目は修行に追い付くのに必死だから、
ジャッジなどしないし、できない。
余裕が出来た三年目だからこそ
周りを観察することができるし、
三年も続けているから
「山伏とは~あるべき」という理想もある。

そんな私をみて、
「本当の修行は四年目からだよ」…と
ベテラン山伏さんがそっとおしえてくれた。
「こんな場所では修行できない!」と
環境のせいにして、
三年目で修行をやめることもできる。
でも本当の強靭な心、魂の進化は
どんな状況であっても、
どんな人が周りにいても、

周りに影響されず流さないこと。
自分の修行のスタイルをみつけて、
穏やかな気持ちで私は祈りたいんだ。
でも今年の修行ではできなかった。

誰かが言ってた。
「静かな場所でなら、誰でも瞑想できる。
 渋谷の雑踏でも、
 心を静める瞑想ができたらすごい」

私は山伏を体験したいのではなく、
世界のために祈る山伏でいたい。
だから私の修行は、まだ始まっていない。
いままでの二年は「山伏という体験」を重ねてたんだ。

幸いにも私は自分が目指したい祈りの姿は
もうわかっている。
どんな場であっても、どんな人が集っていても、
平和な気持ちで自分らしい祈りが出来る人。
年数を重ねたからこそ謙虚である人。
感謝と共に生きる人。

心を整え、魂を成長させるために
これからも修行を通じて精進していきたい。
周囲に動じずに祈りが出来てこそ、
私は地球に祈りで貢献できると思う。
そんな祈り人になるまで、精進を続けよう。

まだまだ未熟だと感じた2016年の修行を終えて。

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